オリーブオイルの空き瓶(後編)
オリーブオイルの空き瓶が、3本並んだ冬の夜、学校から下宿に戻ると部屋のドアに、大家さんからの伝言が貼られていた。実家から電話があり、祖母が亡くなった事を伝えるメモだった。
70過ぎて胃がんの手術を受け、その後普通の生活に戻り、80過ぎまで家事も手伝ってくれていた祖母も、足を悪くして寝付いてからは惚けも進んでいた。夏休みに帰省したときも「どなた?」と言われ、どうしていいかわからなかった。だから、夏が過ぎ、秋を迎え、冬になる頃には、覚悟が出来ていたのかもしれないし、厳しかった祖母が居なくなった事は、離れて暮らしていたからか、余計にすでに現(うつつ)ごとだった。喉と胸の間にもやもやしたものが込み上げてきたが、涙は出なかった。
大家さんに伝言のお礼としばらく帰省する旨を伝え、公衆電話から実家に連絡を入れ、彼女の仕事場に電話をかけた。スキーシーズン中で忙しい中、都合をつけて東京駅にやってきてくれた。銀行も閉まり手持ちのお金もなかったが、彼女が新幹線の切符を何も言わずに買ってくれた。葬儀が終わったらすぐに戻ってくるつもりだったし、「その時にお金返すね」と言うと彼女はうなずいた。
彼女が「今日は仕事に戻らなくてもいい」と言うので、最終の新幹線で帰る事にした。1時間ほど構内の喫茶店で、コーヒーを飲みながら話をした。ついさっきまで黙っていた彼女は、急におしゃべりになった。時間が来て、ホームに上がると、また彼女はしゃべらなくなった。アナウンスが流れ、遠くに新幹線のヘッドライトが見えた。彼女は「一緒に行っちゃおうかな」とぽつりとつぶやいたが、「行こう」と言う前に「行けるわけないか」と笑った。
ホームに列車が停まる寸前に、彼女は小指を差し出した。反射的に小指を彼女に向けると、指を絡ませ、ゆびきりをしてきた。「何のゆびきり?」と聞くと「約束はしないって言う約束」と彼女は言った。ドアが開き、列車に乗った。彼女は笑っていた。手を振っていた。1週間もしないうちに帰ってくるのにと思ったが、笑って手を振って応えた。ドアが閉まった。曇った窓を手で拭って彼女を見た。笑顔が少し歪んで見えた。
久しぶりに会う親戚たちと、何日かをバタバタと過ごし、東京に戻ろうかという時、親父から事業がうまく行っておらず、経済的にかなり厳しい状況だと打ち明けられた。結局、そのまま学校を辞め、地元に戻る事になった。彼女とは何度か電話で話してはいたが、次に会えたのは、下宿の荷物を引き上げに上京したときだった。
もともと書棚代わりのカラーボックスが2つと、勉強机であり、食卓でもあったコタツ、後は段ボールを棚代わりに並べてあるだけの部屋だった。仕事を休んで手伝ってくれた彼女の手際よさもあって、荷造りはあっという間に終わった。配送の手続きも済み、何もない部屋に二人で座り、もうここで彼女の作ったスパゲティーが食べられないんだと思うと、無性に悲しくなってきた。
「ねえ、この前のゆびきり覚えてる?」
「うん」
「約束なんてしなくていいんだよ」
「うん」
「それを約束するのって矛盾してるかな?」
「うん」
「うん」としか言えない自分が情けなかった。格好悪いと思ったが、涙が止まらなかった。
大家さんに鍵を返し、挨拶をした。またこっちに住むなら敷金もいらないから、ここに戻っておいで。と言ってくれた。下宿を後にして、快速を待って彼女と一緒に東京駅まで行った。彼女はまた何も言わずに、切符を買ってくれた。この前の分のお金も受け取ろうとしなかった。
最終の新幹線までの時間を、ホームのベンチで過ごした。知り合ったばかりのような、ぎこちない言葉のやり取りを時々交わし、後は黙っていた。この日は「一緒に行っちゃおうかな」とは彼女は言わなかった。列車がホームに停まり、乗り込む前に二度目のゆびきりをした。その意味はお互いにわかっていた。ドアが閉まると、彼女は手を振ろうと上げかけた手で顔を隠した。そのままその場に座り込む、彼女の姿が焼き付いたドアのガラスを眺めて、目的の駅までの2時間、そのままデッキから動けなかった。
こんな事を思い出したのは、久しぶりの出張で上京し、たまたま連絡のついたその頃の友人と会って昔話をして、最終の新幹線で帰ってきたからだろうか。
懐かしいものを見つけて、ついつい広げてしまった引き出しの中身を、もう一度きちんと収める時間をつくるために、知り合いの店で軽く飲んでから帰る事にした。ビールは苦かったが、まずくはなかった。
タクシーで自宅に戻ると、妻も子供も、もう眠っていた。寝顔を少し眺めてから、水を飲もうとキッチンに行き、コップを蛇口に近づけた時、オリーブオイルの空き瓶に立てた菜箸にあたって、瓶がカランと音を立てた。
<了>
コメント
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2008/08/22 20:55この話のもとになるエピソードはあるのですが、ほとんどはフィクションです。
実はこんな話を思い出した(思いついた)きっかけになる曲があります。
中村中(なかむらあたる)「ゆびきり」と言う曲。
機会があったら是非聴いてみてください。
シングルのカップリングなので音源はネットには試聴版くらいしかないかも。 -
2008/08/23 03:05前編を読んでメールチェックしたとたん後編のメールがきましたw
いやー真剣に読んでしまいました♪なんかメロメロ~涙涙ですねぇ~そのあとどうなったんだろ~(/-\)。。知るのはDocさんのみですかw -
2008/08/23 10:25いやぁ~、すばらしいです。
しっかり引き込まれましたww
実はこの女性が奥さんになっている
ってことはないんでしょうか^^ -
2008/08/23 13:00けろちゃん>
どうなったんでしょうね〜w
しっぽさん>
ありがとうございます。
そうなってるといいなあって感じですね。 -
2008/08/23 15:57ぺこの海岸物語
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2008/08/25 10:34何度か読み返しました。
いいですねぇ。
読む人によって、いろいろな違った感想を抱ける余韻を残す終わり方が素晴らしい。
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2008/08/25 11:39彼女は今どうしているんでしょうね~・・。
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2008/08/25 15:45ひげさん>
ありがとうございます。
週末はちょこちょこ直してました。
その余韻の残し方が難しいですね〜。
また挑戦してみます。
なっち>
どうなったのかな〜?www
もう孫がいるかもww
ぶちこわし?www -
2008/08/26 13:52ナンダカンダでやっと今日になってブログチェック。
で、ようやく読めました。後編。
ノスタルジックな・・・切ない・・・
でも、なぜか新鮮な・・・
あの時別れていたから、今も美しいままの思い出になっているのかな・・・って思うことがありますよね。
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2008/08/26 16:21苦い思い出も時に薄められて
程よいビター感がwww
ま、人生、色々ありますな。 -
2009/04/22 02:13やっぱりドラマなリアルに起こるんだね。親父になった僕に小さな感動をありがとう。ドクターの優しさはこういうことの積み重ねだね。いまさら、この記事を見る人もこのコメントを見る人もドクターを含めてほぼいないだろうから、すなおに書いておこう。
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2009/04/22 10:48オカポン>
コメント付くとお知らせが来るから
俺は見ちゃうんだな、これが(笑)。
読んでくれてありがとう。
この話はあくまでもフィクションです。 -
2009/04/22 11:13うそだね。多少違ってもリアルはそこに見えるぜ!
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2009/04/22 14:08フフフ
コメント一つでも、チェックしてるぜぇぇ^^
でもほんと、このお話は素敵でした。 -
2009/04/23 18:18おかぽん>
部分的にね。。。
ひげさん>
ありがとございます。
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